| 吉田健三 |
貿易商/吉田茂養父/父は福井藩士渡辺謙七(敬介)、同族の廃絶した吉田姓を継ぐ/
1864年、16歳の時、家を出て大阪で医学、長崎で英学を学んだのち、
1866年英国軍艦に便乗して欧州に遊学したのち、明治元年帰国。
「英一番館」ことジャーディン・マセソン商会に入り、番頭をふりだしに、
のち独立し、さまざまな事業を手がけ、横浜で1、2を争う富豪となる。
ジャーディン・マセソン時代は、英語堪能、生糸鑑定に秀でた上、
軍艦の売り込みに成功し、3年後に退職した折には、一万円のボーナスまで贈られた。
明治5年には、「東京日日新聞」(現・毎日新聞)創刊に参画。
この新聞を通じて、板垣退助、後藤象二郎、竹内綱などと、交友関係ができ、
のちの自由党結成にも参加。また、竹内が高島炭鉱の経営に関して、
ジャーディン・マセソン商会と提携した事で、吉田が高島炭鉱の経営を助け、さらに親交が深まった。
のちのビール王と言われる馬越恭平に初めてビールをご馳走したのは、健三だったといわれ、
また、日本で最初の狩猟協会を創り、近衛篤麿を会長に、自らは副会長におさまった。
明治22年40歳の若さで亡くなり、11歳だった吉田茂に遺した財産は当時の金額で50万円(約50億円)。
早世しなければ、間違いなく明治を代表する実業家になっていたであろうといわれる。 |
佐藤一斎
(いっさい) |
江戸後期の儒学者/美濃国岩村藩家老・佐藤文永(信由・のぶより)の次男/
19歳で出仕。藩主松平乗蘊(のりもり)の子でのち林家を継ぐ林述斎と親交を結ぶ。
20歳で致仕して学問に専念、22歳で林家に入門、述斎に師事して34歳で塾長。
70歳で昌平黌(しょうへいこう/昌平坂学問所)儒官(今で言えば東大総長)となり、
幕府文教の実質的中心となる。
門人三千人と言われ、松浦静山、徳川斉昭、鍋島正直らの大名の尊崇をうけ、
門下から渡辺崋山、佐久間象山、安積艮斎、大橋訥庵、横井小楠、中村正直らを輩出。
朱子学を講じたが、学説は陽明学によった。
学問観・人生観は「言志四録」によって見ることができ、その詩文は「愛日楼詩集」として広く愛読された。
※佐久間象山門下からは勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、小林虎三郎が、
吉田松陰門下からは、高杉晋作、久坂玄端、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋など、
弟子・孫弟子などから多数の人材が輩出。また、西郷隆盛は直接は師事していないが、
佐藤一斎が書いた「言志四録」1133条から101条を書き出し、自己の錬成の鏡としたという。
★著書・関連本 |
| 山本条太郎 |
三井物産常務、衆議院議員、満鉄総裁/福井藩士山本条悦(明治5年以後、武)の長男
15歳で三井物産横浜支店に奉公。上海支店長などを経て、明治42年常務となったが、
大正3年のシーメンス事件で起訴され引退を余儀なくされた。
大正9年衆議院議員、以後、政友会幹事長、政務調査会長などを歴任する一方、
昭和2年満鉄社長(のち総裁)となり、満州への経済進出や東方会議に大きな役割を果たした。
★著書・関連本
「小説三井物産(上・下) 」小島直記 |
| 向井忠晴 |
三井物産会長、三井総元方理事長、蔵相/
明治37年三井物産に入社。上海、ロンドンなど主に海外支店で活躍。
(上海時代の支店長は山本条太郎)
統率力にとみ、昭和9年常務を経て14年会長に就任し、同時に三井合名常務理事を兼ねた。
15年持株会社三井合名を三井物産に吸収し、三井財閥の株式会社化を断行し、
16年三井総元方理事長に就任。
18年三井物産の中国での穀物取引を軍部が糾弾する事件(山西事件)が起こり、19年引責辞任。
三井財閥最後の大番頭であった。
戦後20年貿易庁長官となったが、公職追放となる。
27年第4次吉田内閣の蔵相を務め、均衡財政主義を貫く。その後は政財界から引退した。
三井財閥が解体されたのちの旧三井物産系商社の統合や三井グループの結束を背後から支援した。 |
| 原亮三郎 |
第九十五銀行頭取、衆議院議員、金港堂書籍取締役/ |
| 原亮一郎 |
金港堂書籍社長/原亮三郎長男(明治2年生)、妹にミサオ(明治13年生)、秀(明治26年生)、他 |