竹内綱
(つな) |
衆院議員、竹内鉱業社長、京釜鉄道常務/吉田茂の実父/土佐出身/
戊辰戦争に従軍後、明治3年大阪府典事、少参事、大蔵省六等出仕となり、
8年後藤象二郎とともに高島炭鉱の経営にあたる。
10年林有造らと西南戦争に呼応しようとした罪で禁獄1年の刑に処せられる。
その後、板垣退助の自由党結成に尽力し、23年以降衆院議員に当選3回、
自由党、立憲政友会に所属した。
29年京釜鉄道専務理事、のち、芳谷炭坑社長となり、40年以降は東京の実業界で活躍。
また秋田鉱山専門学校(現・秋田大学鉱山学部)を創立した。 |
| 竹内明太郎 |
小松製作所(現・コマツ)創業者、衆院議員/吉田茂の長兄(異母兄)/土佐出身/
竹内綱の長男として生れ、父に従い上京、英・仏語を学び、
のち自由党に入り、「東京絵入自由新聞」を刊行する。
さらに鉱山経営に携わり、明治33年パリ万博など欧米視察後、
欧米の最新技術を積極的に導入した。
また、本格的な機械工業を日本に興すべく、唐津鉄工所、小松鉄工所を設立した。
早稲田大学理工学科の新設に尽力し、
私立高知工業学校(現・県立高知工業高校)を創立するなど、産業教育の振興にも貢献した。
大正4・6・9年と衆院議員に当選、政友会に所属した。
◆「沈黙の巨星―コマツ創業の人・竹内明太郎伝 」小松商工会議所機械金属業部会/著 |
| 吉田茂 |
首相、外交官/竹内綱五男、養父は横浜の貿易商吉田健三/
牧野伸顕(大久保利通次男)娘婿/
田中義一内閣の東方会議に出席。駐英大使を最後に昭和14年外交の第一線から退いた。
第二次大戦中は反政府活動の嫌疑で憲兵隊に拘置されたこともある。
戦後は東久邇・幣原両内閣の外相となり、追放を受けた鳩山一郎の懇請を受けて、
21年5月日本自由党総裁として組閣、占領期から講話・独立期の政治運営にあたる。
軽軍備・経済重点の政治・外交指導のスタイルは、のちに吉田ドクトリンと称された。 |
| 中江兆民 |
明治期の自由民権思想家/娘・千美は竹内綱三男・虎治の妻/土佐出身/
明治14年「東洋自由新聞」主筆、15年「自由新聞」社説掛としての言論活動や、
ルソー「民約訳解」翻訳刊行により、自由民権運動に人民主権の理論を提供した。
明治23年衆院議員となるが、翌年土佐派議員の裏切りに憤慨して辞職。
◆著書・関連本 |
| 白石直治 |
明治・大正期の土木技術者/関西鉄道社長、衆議院議員、第5代土木学会会長/
漢学者・久家種平長男、白石家を継ぐ、母方叔父に中島信行/土佐出身/
農商務省・東京府勤務後、米留学。明治20年帝国大学工科大学教授。
23年関西鉄道社長に転じ、のち仙石貢の要請で九州鉄道取締役、33年若松築港社長。
39年神戸で日本初の鉄筋コンクリート造倉庫、
大正初年に猪苗代水力発電所の建設にあたった。
衆院議員に3回当選、政友会に属した。大正8年土木学会会長。 |
中島信行
(中嶋) |
初代衆議院議長/最初の妻は陸奥宗光の妹、明治10年死別/土佐出身/男爵
1864年脱藩して長州に走り、海援隊、次いで陸援隊に参加。
維新後新政府に出仕、諸職をへて、神奈川県令、元老院議官。
14年自由党創立に参画、副総理に推され、次いでその別働隊を自負して
大阪に設立された立憲政党の総理となった。
議会開設で衆院議員に当選、初代衆院議長を務めた。
伊公使・貴族院勅選議員。29年男爵
◆「自由民権家 中島信行と岸田俊子―自由への闘い 」 |
岸田俊子
(中島俊子) |
明治期の女性民権運動家・作家、号は湘煙/中島信行後妻/京都出身
15歳で宮中に出仕、漢学を進講する。
明治15年から自由民権運動に参加、各地を遊説して評判になる。
16年滋賀県での演説「函入娘」で官吏侮辱罪と集会条例違反の嫌疑を受け投獄される。
中島信行との結婚後は「女学」に転じ、評論・随筆・小説・日記・漢詩などの執筆活動を行った。
評論「同胞姉妹に告ぐ」は男女同権を主張した画期的な作品。
◆「花の妹―岸田俊子伝 」西川祐子/著
「女性解放の先駆者 中島俊子と福田英子 」糸屋寿雄/著 |
| 中島久万吉 |
古河合名理事、商工相/男爵
明治39年古河鉱業に入社、古河合名理事や古河電工社長・横浜護謨製造社長を歴任。
大正6年日本工業倶楽部の設立に尽力し、専務理事に就任。
昭和5年臨時産業合理局の常任顧問、7年斎藤内閣の商工相。
政党連合運動を理由に軍部ににらまれ、足利尊氏賛美論のため辞任。
帝人事件後、政界を引退。
第二次大戦後、日本貿易会を創設した。
◆「政界財界五十年 (1951年) 」 まつ出版 |
| 陸奥宗光 |
農商務相、外相/父・伊達宗広は紀伊藩士・勘定奉行/紀伊出身/伯爵/
15歳の時江戸に遊学、のち京都に行き、勤王運動に参加、
1867年脱藩して坂本竜馬の知遇を得て海援隊に加わる。
維新後、外国事務局に勤め、神奈川県令を経て明治5年地租改正局長となる。
7年薩長藩閥の専横に反対して職を辞したが、8年元老院議官となる。
西南戦争の際には林有造、大江卓ら土佐派と反政府の挙兵を企てたとの理由で
禁獄5年に処せられた。
15年赦免され、欧米諸国に留学、帰国後外務省に入る。
21年駐米公使、23年山県内閣農商務相、24年衆院議員、
25年枢密顧問官、同年伊藤博文内閣外相。
27年英との間で条約改正を実現。
日清戦争の遂行に精励し、下関条約には全権として活躍した。
◆著書・関連本
「陸奥宗光とその時代 」岡崎久彦/著
「陸奥宗光〈上巻〉 」「陸奥宗光〈下巻〉 」岡崎久彦/著 |
岩村通俊
(みちとし) |
初代北海道庁長官、農商務相/岩村三兄弟長兄/土佐出身/男爵/
土佐藩陪臣岩村英俊の長男。岡田以蔵、武市瑞山と交わる。
戊辰戦争には官軍の軍監として従軍。
維新後、佐賀県権令・鹿児島県令などを経て元老院議官となり、
さらに会計検査院長・司法大輔・初代北海道庁長官などを歴任。
第一次山県内閣の農商務相となるが、
省内の抗争を抑えられず半年で退き、貴族院議員に転じた。 |
| 岩村俊武 |
海軍中将/岩村通俊次男/土佐出身
日清・日露戦役に参加、特に水雷戦術に長じていた。
のち累進して大正6年海軍中将となり、10年予備役に廻る。
その間大湊要港司令官、海軍将官会議議員、練習艦隊司令官等を歴任。 |
| 岩村通世 |
検事総長、司法相/岩村通俊五男/
司法省に入り、初代の思想検事となり、八幡製鉄疑獄の応援検事、
帝人事件担当の東京検事正などをつとめ、司法次官、検事総長を経て、
昭和16年第3次近衛内閣、東条内閣の司法相となる。
敗戦後はA級戦犯として巣鴨拘置所に拘禁されたが、23年12月岸信介らとともに釈放され、
弁護士をするかたわら土佐協会理事長となった。 |
| 香川敬三 |
明治・大正期の宮内官/皇后宮大夫、枢密顧問官/伯爵
水戸藩士で、藤田東湖に学び、京都に出て岩倉具視に仕える。
1868年東山道総督府大軍監となり、下総国流山で新撰組・近藤勇を投降させる。
宮内省に入り明治14年から大正元年まで皇后宮大夫を務めた。 |
| 伊賀氏広 |
飛行機国産第一号機製作者/伊賀家は土佐藩家老/土佐出身/男爵/
12代氏成(伊賀陽太郎)の養嗣子として山内家より伊賀家に入る。 |
| 林有造 |
逓信相、農商務相/岩村三兄弟次弟、林茂次平(騎馬知行三十石)の養子となる/土佐出身
幕末、尊攘運動に挺身、戊辰戦争に従軍。
維新後、高知藩参事を経て外務省に出仕。
征韓論で板垣退助の下野とともに退官し立志社に参加。
西南戦争では挙兵を企図したが、失敗して入獄。
出獄後、大同団結に際して愛国公党結成に参加。
第1回総選挙から衆院議員に9回連続当選。
自由党と第2次伊藤内閣との提携後、
伊東巳代治とのパイプを独占し、土佐派の中心として活躍。
第1次大隈内閣の逓信相、第4次伊藤内閣の農商務相。
星亨台頭後は振わず、立憲政友会を脱党。
明治41年以降政界を引退して余生を郷里に送った。 |
| 林譲治 |
吉田茂内閣副総理・厚相、衆議院議長/土佐出身
陸軍中将新井清簡の三女・靖(やす)と結婚するも翌年亡くなり、その妹・静と再婚/
高知県会議員を経て、昭和5年以来、衆院議員当選11回。
6年犬養内閣に入閣した鳩山一郎文相の下で秘書官をつとめ、鳩山派の幹部となる。
敗戦後の21年、第1次吉田内閣の書記官長に起用され、
鳩山の公職追放後の吉田首相の監視役を引き受けた。
以後、23年第2次・24年第3次吉田内閣の厚相、25年同改造内閣の経済安定本部長官、
副総理(23.10〜26.3)を歴任、26年衆議院議長。
27年自由党幹事長となり、その後は自由党総務を経て引退。
鳩山直系でありながら、吉田茂と親族関係にあったため関係も深く、
益谷秀次、大野伴睦とともに吉田茂の御三家と呼ばれた。 |
| 岩村高俊 |
地方長官を歴任/岩村三兄弟末弟/土佐出身/男爵/
戊辰戦争では東山道軍の軍監などを務めて北陸・東北地方を転戦。
維新後、兵部省・有栖川宮家家令や各県の権参事を経て、
明治7年佐賀権令として、佐賀の乱を鎮めた。
同年全権弁理大臣大久保利通に従って清国に渡り日清会談に参画。
愛媛・石川両県令や石川・愛知・福岡・広島の各県知事などを歴任した。
石川では四高の誘致、福岡では害虫駆除など地方官として功績を残した。 |
| 岩村透 |
明治・大正期の美術批評家・美術史家/岩村高俊長男、妻は岩村通俊二女・蝦夷/男爵
明治21年東京英和学校を中退しアメリカに留学。
さらにパリに学び25年帰国し、母校で教鞭をとる。
明治美術協会に参加ののち、29年黒田清輝らの白馬会結成に参加。
32年から東京美術学校で西洋美術史を講義するかたわら、博覧会行政にも参画した。
西洋美術史研究・美術批評の先覚者であり、J・ラスキン、W・モリスの日本への紹介者。
「芸苑雑稿」などの著作のほか、美術史関係の翻訳も多い。
◆著書 |
大三輪長兵衛
(おおみわ ちょうべえ) |
第五十八国立銀行頭取、衆議院議員、京釜鉄道常務/
明治6年大久保利通内務卿に建白書を提出して通商貿易の必要を説き、その後、
商法会議局の設立を切望、商法条例・契約口銭規則に関する意見などを述べた。
また、22年大阪府会区部会議長・大阪市会議長として地方政界に活躍した。
27年東学党の乱の際、朝鮮に渡り、中野武営・大倉喜八郎・益田孝らと
京仁鉄道敷設権獲得のため奔走し、33年アメリカの鉄道業者モースから
その敷設権を買収することに成功し、朝鮮で政治・経済の各方面で活躍した。 |
| 大三輪奈良太郎 |
日本銀行/大三輪長兵衛長男 |
| 小野梓 |
明治前期の政治家・法学者/義兄[妻・利遠子(りおこ)の兄]に小野義真/土佐出身
明治2年昌平坂学問所に学び、英米などに留学。
7年帰国後、共存同衆を結成して言論活動を行う。
9年以降官途につき、司法少丞、元老院会議書記官、会計検査官などを歴任し、
法制整備に従事するなかで参議大隈重信と接触。
明治十四年の政変で大隈とともに下野し、15年4月立憲改進党の結成に参加し、
同党の主要文書を起草するなど、大隈を助けて活躍した。
9月東京専門学校(早稲田大学)創立に参画、
翌年には東洋館[のちの富山房(ふざんぼう)]をひらき洋書取次・政経書の出版をはじめる。
◆「小野梓 」 |
| 小野義真(ぎしん) |
小岩井農場共同創立者(小野義真、岩崎弥之助、井上勝)、日本鉄道会社社長 |
| 小野義一 |
大蔵官僚、衆議院議員/伯父に小野義真 |
尾崎三良
(さぶろう) |
明治・大正期の官僚/法制局長官、宮中顧問官、京釜鉄道常務/男爵
山城国生れ。三条実美に仕え尊皇攘夷運動に関与、七卿落ちに随行する。
明治初年イギリスに学び、帰国後法制官僚として累進し、第1次山県内閣の法制局第一部長、
第1次松方内閣の法制局長官として初期議会に臨む。
議会対策・立法活動にあたる一方、政府内の対政党強硬派の暴走を抑えた。
のちに京釜鉄道や経済研究同志会での活動が主になったが、長年貴族院議員を務めた。
◆「尾崎三良日記 」
「尾崎三良自叙略伝 」 |
| 尾崎行雄 |
“憲政の神様”/文相、東京市長、司法相/
後妻に尾崎三良の最初の妻(イギリス人)との娘テオドラ、尾崎姓同姓はたまたま/
明治23年から昭和27年まで衆院議員連続当選25回、代議士生活63年。
◆「咢堂尾崎行雄」
他 |