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手塚治虫 系図 (※転載禁止)

[系図1]


手塚一族の先祖

(「歴史と旅」2000年2月号[漫画の神様 手塚治虫とその一族/深瀬泰旦] より)

その祖は信濃国(長野県)にはじまる。
藤沢次郎清直は小県(ちいさがた)郡の手塚郷(現在の上田市)からおこり、 5代後の手塚次郎光盛が養和元年(1181)の木曽義仲の挙兵にあたって その陣営にしたがったことは、「平家物語」や「源平盛衰記」にみえる。

その後、常陸国(茨城県)に移って、江戸時代初期 手塚吉兵衛と名乗る人物が常陸府中(石岡)藩に仕えた。
その子の盛行の代から、おそらく藩医としての仕事がはじまったと思われる。

以後、手塚家には多くの医家同様、脈々として医師としての血が流れている。
ついで盛方東益とつづくが、これらの医師が どのような医方を学んだかについては、これをしめす資料はない。
東益の娘婿として手塚の家に入ったのが良意である。

良意は文化元年(1804)に64歳で病没したが、男子を残さなかったので、 武蔵国(埼玉県)大里郡代村冨田与八郎の四男良仙光行が養子としてはいった。
この良仙光行は文化8年に水戸の原南陽の門にはいって 漢蘭折衷医学を学んだことが、南陽の門人録にみえる。(中略)

常陸府中藩は水戸藩の支藩で、いわゆる参勤交代が免除されていた定府の藩なので、 良仙光行は江戸・小石川三百坂下に内科を標榜して開業していたことが、 文政2年(1819)刊行の医師名鑑ともいうべき「江戸今世医家人名録」にみえる。

三百坂は小石川伝通院の裏にある府中藩の上屋敷の坂であり、 その坂の下に良仙光行の家があった。
良仙光行は文政12年に病没した。64歳であった。

※この良仙光行の嗣子が、手塚良仙光照(みつてる)。
手塚治虫が、自身・手塚家のルーツを描いた「陽だまりの樹手塚良庵の父である。

手塚良庵(のち良仙)等、お玉ガ池種痘所設立に参加した蘭方医は、 師弟関係や姻戚関係によって結ばれている。
その典型的な一例が、上記・手塚一族である。

「お玉ガ池種痘所」が、「西洋医学所」となり、さらに「医学所」に発展して、 維新後、新政府が「医学校」として継承。これが今日の東京大学医学部へと発展した。
東大医学部は、その創立の日を お玉ガ池種痘所開設の安政5年(1858)5月7日としている。


[系図2]

そらのる 1210追加

●手塚治虫家系図
手塚良仙 医師、蘭方医/手塚良仙光照/二男四女の父/
父・良仙光行の跡を継いで常陸府中藩医となり、江戸・小石川三百坂下で小児科・産科を開業していた。
手塚良仙
(手塚良庵)
手塚良仙
医師、蘭方医/手塚良仙光照の長男・手塚良仙光亨/手塚治虫曽祖父/
当初、良庵を名乗る。文久2(1862)年、父の死にともない良仙を襲名/
安政2(1855)年、大坂の適塾に入門。2年にわたりオランダ医学を学んだ後、江戸に帰り、父を助けて開業医としての生活に入った。
お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人で、種痘所において江戸の子供たちに種痘を行い、医学所に入門を希望する医師の入門試験に立ち会った。
文久3年、歩兵屯所附属医師となったのち、医師取締介、同取締役に昇任した。
歩兵組が各地へ出動するに際しては、それに帯同して兵士の傷病の手当てに従事。
慶応2年(1866)、江戸市中に六ヶ所の種痘出張所が設けられた折には、自宅をその出張所として、界隈の子供たちに牛痘接種を施した。
幕府瓦解後は、一転して明治新政府に登用され、新たに創設された医学校に勤務、三等教授試補並産科掛を務めた。
その後、医学校をはなれ、明治4年には陸軍軍医官に転身して、陸軍一等軍医副(中尉相当官)に任じられた。
明治10年の西南戦争には軍医(大尉相当官)として、近衛歩兵第一連隊第二大隊付き医官で出征し、第二旅団中央小包帯所附となって傷病兵の治療に従事した。
しかし、戦火が既におさまった9月26日に発病、大阪城内にある陸軍臨時病院に転送されたが、手当ての甲斐なく、10月10日に43歳で死去。赤痢であった。
大槻俊斎
大槻俊斎
医師、お玉ガ池種痘所頭取、江戸三大蘭方医の一人/
妻・海香は手塚良仙光照長女/
お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人
大槻玄俊 医師、軍医官/大槻俊斎長男/
お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人/
維新後は陸軍に奉職し、累進して陸軍三等軍医になった。明治41年死去。
鮭延良節 医師/手塚良仙光照の次男/金沢藩医・鮭延秀庵義知に養子入り/
妻は大槻俊斎の妹
鮭延良治 医師、軍医官/
明治7年、緒方惟準(緒方洪庵二男)が陸軍軍医寮勤務のかたわら、東京・神田駿河台に開設していた適々斎塾に入門。
連隊付軍医官として、金沢・姫路・佐倉などの各連隊に勤務。
明治23年、一等軍医。明治33年に軍を辞めて東京市麹町区で開業した。
手塚良斎 医師/妻・秀は手塚良仙光照二女/
旧姓名・内村政富、手塚家に婿養子入り/
お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人
伊東玄晁 医師、永井肥前守の侍医/妻は手塚良仙光照三女/
お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人
手塚良元 医師、常陸府中藩医/妻は手塚良仙光行の長女(良仙光照の妹)。婿養子
手塚良運 医師、常陸府中藩医/
太田良海
(太田道一)
医師、伊予西条三万石城主・松平左京大夫の侍医/
妹の夫が手塚良仙光照/
太田東海 医師/太田良海長男、本名・資啓/
お玉ガ池種痘所の建設資金を拠出した83人衆の一人/
文政12年(1829)生まれ。15歳の時から父について医学の手ほどきを受けた。
嘉永2年11月には、父と同じく、大槻俊斎の門に入って、フーフェランドやモストの内科訳書、ホルンの産科訳書によって蘭医学をおさめ、安政4年8月に父のもとに帰って開業医生活に入った。
明治8年、腸チフスにより47歳で死去。
太田良海(よしみ) 医師
濱田庄司
濱田庄司
陶芸家/太田東海の外孫/
弟は田辺和雄(植物学者)。妹の夫は大照円雄(天台宗僧侶)/
長女の夫は、岡信孝[日本画家/川端龍子(りゅうし)の孫]。
昭和46年、次女・比佐が棟方巴里爾(俳優/棟方志功長男)と結婚。
媒酌人は劇団民芸・宇野重吉。棟方志功が浜田家に願って成立した結婚であった。/
「民芸陶器」で人間国宝となり、のち文化勲章を受章。
浜田庄司
私の履歴書 (文化人 7)
服部英男 陸軍中将/娘・文子が手塚治虫の母
手塚太郎
手塚太郎
長崎控訴院長、裁判官、関西大学創立者の一人/
明治17年7月、司法省法学校を卒業し、検事や判事を歴任して、大正2年4月に長崎控訴院院長に就任した。
昭和7年、病没。勲一等に叙せられた。
手塚粲(ゆたか) 住友金属社員(戦前)/
手塚治虫
手塚治虫
漫画家、“漫画の神様”/本名・手塚治/
手塚治虫
ぼくはマンガ家
手塚悦子 昭和34年、手塚治虫と結婚。元々、血の繋がりのない親戚ではあった。
(手塚治虫の伯母と、悦子の伯父が結婚していた。)
姉・栄子、兄・繁と同様、名付け親は手塚太郎であった/
30年間にわたり、超売れっ子漫画家の妻として、手塚治虫を陰で支え続けた。一男二女の母。
手塚治虫の知られざる天才人生
(「夫・手塚治虫とともに―木洩れ日に生きる」の文庫版)
手塚眞
手塚眞
ヴィジュアリスト(映像作家)/手塚治虫長男(第1子)、戸籍上の名は「真」
手塚眞
父・手塚治虫の素顔
手塚治虫 知られざる天才の苦悩
岡野玲子 漫画家/平成2年、手塚眞と結婚/
岡野玲子
陰陽師 (1)
手塚るみ子 プランニング・プロデューサー/手塚治虫長女(第2子)
手塚るみ子
ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」水木悦子、赤塚りえ子、手塚るみ子
オサムシに伝えて
手塚千以子(ちいこ) 手塚治虫次女(第3子)/
学生時代、立教大学劇団テアトルジュンヌに所属/
『手塚氏の次女で、演劇やミュージカルの制作会社に勤務する千以子さん(29)が、11月21日、都内のホテルで挙式する。
お相手は、企業広報誌などの編集を手掛ける阿部隆二さん(25)。
二人は、立教大学のある学生劇団の先輩後輩として出会った。
「私が芝居に興味を持ったのは、やはり父の影響です。
父自身、子供の頃から宝塚歌劇や映画に親しんでいたし、若い頃は役者としても舞台に立ったこともあったんです。」
大学卒業後、一旦はコンピュータ・メーカーに就職したものの、千以子さんは芝居への想いを断ち切れず、演劇活動にも理解のある現在の会社に転職。
大学の仲間と劇団を旗揚げするなど、役者としての活動も続けてきた。
(「週刊新潮」1998年11/5号[結婚]より所々抜粋)』
岡田寛蔵
(岡田葭堂)
俳人
岡田良之助 村長、郵便局長
岡田政司(まさし) 裁判官、弁護士/早稲田大学法学部英法科卒/
『父の政司は新潟県中魚沼郡中条村(現在の十日町市)で生まれました。
庄屋で代々村長を務めた家系で、本家は初代民選の新潟県知事を務めたこともあります。
が、父は分家筋で、村の郵便局長の末子として生まれました。
遠縁に富士山の姿ばかりを写す写真家の岡田紅陽がいます。
また、岡田家からは明治のはじめの南画家、岡田梅壑(ばいかく)、父の祖父である俳人の岡田葭堂が出たと、父の残した小冊子には書かれています。
(「手塚治虫の知られざる天才人生」手塚悦子/著 より所々抜粋)』
岸本綾夫 陸軍大将、東京市長(S17.8~19.7)、満州製鉄理事長/
岡山藩士(剣術師範)・小学校長岸本美時の二男/
妻・近江は手塚太郎三女(手塚粲の姉)、妹・速女(はやめ)が手塚悦子の母/
二男・次郎は陸軍大尉
南部球吾
南部球吾
三菱合資管事・炭鉱部長、鉱山技師、工学博士/
福井藩士・官吏南部広矛の二男。弟に裁判官・寺島小五郎(三男)、陸軍中将・横山彦六(四男)/
妻・屋須は数学者・藤沢利喜太郎の妹
南部太郎 三菱合資長崎造船所技師(「人事興信録/大正7年」)/
妻・志賀子は手塚太郎二女
(肩書き・役職の「元・前」は基本的に省略|人物解説リンク:コトバンク/amazon[名前で検索])





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●参考文献
「歴史と旅」2000年2月号([大河の血脈-ファミリー・ツリー「漫画の神様 手塚治虫とその一族」]深瀬泰旦)
医界風土記 (関東・甲信越篇)」(P207~208[川崎の蘭方医 太田東海]深瀬泰旦)日本医師会
神様手塚を読む」(P126~133[手塚家のルーツと「陽だまりの樹」]深瀬泰旦)小学館文庫/編
手塚治虫の知られざる天才人生」手塚悦子
父・手塚治虫の素顔」手塚眞
日本陸海軍総合事典」秦郁彦/編
日本陸海軍人名辞典」福川秀樹
祈りの人 棟方志功」宇賀田達雄
私の履歴書 (文化人 7)」日本経済新聞社
人事興信録