| 山本賢一郎 |
郷士、豪農/
剣術を武市半平太に習い、小野流一刀流の免許皆伝の腕を以って鳴らした剣客でもあった。
維新の折りには、山内氏の配下板垣退助について、会津若松に遠征、
その中には、のちに親戚となる竹内綱もいた。
学問にも優れ、生活は質素・倹約を旨とする山本家はキリスト教に帰依し、
賢一郎は孫の忠興や拙郎に自由民権思想を鼓吹した。 |
| 山本忠秀 |
土佐電燈社長、土佐農工銀行頭取、竹内鉱業監査役、県会議員、貴族院議員/
明治12年以来、漢学を修める。24年法律学校を卒業して政治運動に身を投じ、
28年高知県会議員となる。30年多額納税貴族院議員。
また、実業界においても数々の会社の要職をつとめた。 |
| 山本忠興 |
明治〜昭和期の電気工学者、早稲田大学教授/山本忠秀長男
母は忠興を産むと産後の肥立ちが悪くすぐ亡くなり、昔のこと故、
結婚後も入籍の届け出をしないうちであったので、戸籍は山本忠秀の養嗣子ということになった。
東大在学中、植村正久から洗礼を受けてクリスチャンとなる。卒業後、芝浦製作所に入り、
大正元年、設計主任となり、また叔父・竹内明太郎の勧めもあり、早大理工学部教授となる。
この間欧米に留学し、電気機械設計を研究。日本で43、外国で11の特許権を得るなど、
欧米諸国にも優れた技術が認められ、中でも高周波発電機やOYK同周期電動機、
早大式テレビジョンの開発は、電気工学に新時代をもたらす画期的なものであった。
11年、従弟である山本拙郎の設計・あめりか屋施工の「電気の家」に住む。
昭和5年十大発明家の一人に選ばれる。19年早大名誉教授、久我山電波工業専門学校校長となった。
電気学会・照明学会長、学生陸連会長、第9回アムステルダムオリンピック総監督。
また、神学大学やYMCA、日曜学校の教授や理事もつとめるなど、人間と科学の調和に生涯をささげた。
東大では、電気工学の先達・鳳秀太郎(与謝野晶子兄)に学び、
早大での教え子には、ソニー創業者・井深大がいる。
■参照:「大正〜昭和初期発明家伝21」(「拳拳服膺」) |
| 山本繁馬 |
自由民権運動家、県会議員(明治22〜24)/ |
山本拙郎
(せつろう) |
住宅建築家/住宅作家(住宅だけを専門に生業とする建築家)の草分け/
母を早く亡くした10歳違いの従兄・忠興と兄弟のように育つ。
創設間もない早稲田大学建築学科に進み、住宅設計・施工専門会社「あめりか屋」入社。のち代表取締。
雑誌「住宅」主筆として住宅改良の啓蒙にも尽くす。のち、自営の傍ら、財団法人同潤会嘱託。
今日、当たり前となっている和洋折衷の住宅スタイルの浸透に果たした役割は大きい。
佐藤功一、今和次郎の影響を受け、当時の建築界の主流を歩むことなく、
生涯にわたって住宅設計を志した。昭和19年没。
★著書・関連本
「拙先生絵日記 」山本拙郎/著、内田青蔵 /編 |
| 池田武義 |
海軍大佐/ |
| 池田武邦 |
建築・都市計画家、日本設計社長/日本初の超高層ビル・霞ヶ関ビルのチーフ設計者/
戦艦大和の沖縄水上特攻に巡洋艦矢矧の測的長として参加。重油の海に投げ出されるも奇跡的生還。
戦後、33歳違いの従兄・山本拙郎の影響もあり、建築を志し、東大に学ぶ。
霞ヶ関ビルの設計を経て、京王プラザホテル、新宿三井ビルなど、日本の超高層ビルの黎明期を築く。
昭和42年、日本設計事務所を設立、後に社長に就任。
その後も、筑波研究学園都市工業技術院研究センター(S55年)、新橋演舞場(S57年)など、
日本を代表する建築物の設計総括責任者として活躍。
62年の長崎オランダ村と、それに続くハウステンボスは建造物という枠を越え、
最先端の技術とエコロジカルなシステムを融合させた“新しい街の創造”として注目を集めた。
長崎総合科学大学教授として環境計画学を教える傍ら池田研究室を主宰。
自然と共に暮らす未来志向のまちづくりに取り組む。
★著書・関連本
「大地に建つ―200年後の建築家と子どもたちへ 」
「最後の海空戦―若き最前線指揮官たちの日米戦争 」片岡紀明/著
(沖縄水上特攻に潰ゆ〜軽巡洋艦「矢矧」測的長・池田武邦) |
| 竹内強一郎 |
横浜高等工業学校(横浜国大前身)教授、小松製作所専務、相模工業社長/竹内明太郎長男/
東京帝国大学電気工学科を卒業し、米ダウトマス大学院でマスターオブサイエンス取得。
電気工学の分野においては当時、一級の研究者の一人。 |
| 竹内啓一 |
地理学者、一橋大学教授、日本地理学会会長/
昭和56年、一橋大学社会学部長。63年10月からローマ日本文化館第8代館長をつとめる。
平成3年一橋大学教授に復帰。6年名誉教授、駒沢大教授。社会地理学、地理思想史が専門。
編著に「産業地理学 」、「地理学を学ぶ」。
訳書にクラヴァル「現代地理学の論理」、スミス「不平等の地理学 」など。
★著書・関連本
「20世紀の地理学者 」、「伝統と革新―私が読んだ99の地理学 」 |
| 中田薫 |
明治〜昭和期の日本法制史学者、東大教授/
宮崎道三郎教授に師事。明治35年東大助教授、次いでドイツに留学、帰国後、44年東大教授。
初期に荘園の研究や「知行論」などで、日本の中世法がドイツ中世の制度と類似することを明らかにし、
後年の村や入会(いりあい)の研究でもドイツとの比較を通じてその法的性質を解明した。
主要論文は「法制史論集」全四巻に収載。「徳川時代の文学に見えたる私法 」も古典的価値を持つ。
大正14年帝国学士院会員、昭和21年文化勲章を受章。
★「法制史論集 」 |
白石多士良
(たしろう) |
白石創業者・社長、小松製作所初代社長/妻は岩村高俊の娘・嵯峨/
土木建築学界に不滅の名を残し、その功績は大きく、特に独自の潜函工法で
実に驚異的な業績を完成した。東大工科の出で鉄道院技師の後、基礎工事を専門に
建設界に乗り出し、関東大震災後、隅田川の永代橋、清洲橋の復旧工事に、
日本で初めての潜函工法を実施した。その後東大講師などもつとめた。
昭和8年には宿願であった潜函工事を専門とする白石基礎工業合資会社を創立して社長となり、
13年からは白石基礎工事の社名で、その後半生を同工法の確立に尽くした。
また、日本最初のゴルフ入門書「正しいゴルフ」を著した。「ゴルフ列伝日本の百年 白石多士良」
◆「追憶白石多士良」 |
| 白石泰(ゆたか) |
白石基礎工事社長/ |
| 白石俊多 |
白石基礎工事副社長、会長/ |
| 白石宗城 |
新日本窒素肥料(チッソ)社長/
東大電気工学科卒業して、日本窒素肥料に入り、入社4年目には米国を視察。
その後、2年ほどで一端退社、ドイツに留学。昭和11年復社、延岡の大工場建設に参画。
朝鮮窒素肥料の常務に選ばれたのを皮切りに日窒傘下各社の専務、社長、会長と、
内地、大陸の別なく歴任ののち、日窒専務に専念したが、戦後の日窒コンツェルン解体で退く。
26年迎えられて新日本窒素肥料の社長となった。 |
| 中島多嘉吉 |
日本通運専務/中島信行次男/ |
| 五代友厚 |
明治期の実業家、政商、大阪商法会議所(大阪商工会議所)初代会頭/
幕末期、幕府の海軍伝習所に入る。英商人グラバーを通じての渡欧後、
武器・船舶・紡績機械などの輸入を行い、薩摩藩の殖産興業政策に寄与。
維新とともに新政府参与となり、外国事務掛・外国官権判事・大阪府判事・会計官権判事などを兼任し、
大阪を中心とする外交・貿易事務を掌り、併せて旧諸藩の贋貨整理にも尽力。
まもなく官を辞し、通商会社・為替会社の設立、大阪造幣寮や金銀分析所の設立、
金銀銅山開発などに努力。特に大久保利通と深い結びつきを持ち、有力な政商として活躍。
明治11年広瀬宰平と図って大阪株式取引所を設立、さらに堂島米商会所の改革を図るとともに、
大阪商法会議所を設立し、その会頭に就任。13年、大阪製銅を設立、また大阪高等商業学校を創立。
14年、関西貿易会社を設立して、北海道開拓事業に乗り出すが、
官有物払下げ事件を引き起こして世論の強い非難を浴びる。
だが、翌年には藤田伝三郎らと図って阪堺鉄道(南海電鉄)を創設するなど、
常に関西財界の指導的地位にあった。
★関連本 |
| 五代龍作 |
工博、東大教授/
★「近代日本企業家伝叢書 (5) 五代友厚伝 」 |