
■豊後森藩主・久留島家
久留島家は村上を称し、伊予来島を領有した。
通総は、秀吉に仕えて来島と称し、水軍の将として功があり、
伊予で一万四千石をあてがわれた。
関ヶ原戦では、西軍に与し、長親は慶長6(1601)年、豊後森に移された(一万四千石)。
通春の代、元和2(1616)年、名字を久留島に改めた。
通清は明暦元(1655)年分知して、一万二千五百石となり、以後維新に至る。
※久留島家歴代系図は、
「江戸大名家血族事典」別冊歴史読本、「平成新修旧華族家系大成」、
及び、「人事興信録(第9版・昭和6年)」の記述による、
『久留島武彦は通寛の長男にして子爵久留島健三郎の再従兄(はとこ)』
などを参考に作成。
・「メルヘンの語部―久留島武彦の世界」等では、
『(武彦の)父は、明治維新で森藩最後の藩主となった通靖の長男。』
(すなわち、武彦は12代藩主・通靖の孫)
というのは、誤りと思われる。
・「日本史諸家系図人名辞典」では、10代藩主・久留島通明は、
『通嘉の子。兄通容の養子』(すなわち、9代・10代・11代は兄弟)となっている。
・「江戸300藩 殿様のその後 明治から平成まで、大名はこう生き抜いた!」では、
『武彦の父は8代藩主通嘉の子通寛で、9代、10代、11代藩主の兄弟である。
つまり武彦は通靖、通簡とは従兄弟になる。』となっている。
正解は?? |
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| ●豊後森・久留島家系図 (人物解説リンク:ウィキペディア) |
| 久留島通嘉 |
豊後森藩8代藩主 |
| 久留島通容 |
豊後森藩9代藩主 |
| 久留島通明 |
豊後森藩10代藩主 |
| 久留島通胤 |
豊後森藩11代藩主 |
| 久留島通靖 |
豊後森藩12代(最後の)藩主 |
| 久留島通簡(みちひろ) |
13代当主/子爵 |
| 伊東祐麿(すけまろ) |
海軍中将/妻が久留島通簡の姉/子爵 |
| 伊東祐亨(すけゆき/ゆうこう) |
元帥海軍大将/祐麿の弟/伯爵 |
| 久留島健三郎 |
14代当主/久留島武彦のはとこ/子爵 |
| 久留島武彦 |
児童文学者、口演童話家/旧筆名・尾上新兵衛/
父は通寛、母・恵喜は中津奥平藩の家中・奥平丈右衛門(禄高200石)の娘/
関西学院に入り、明治24年受洗。
27年日清戦争に従軍し、その見聞記を尾上新兵衛の筆名で「少年世界」に連載する。
33年「戦塵」の題名で出版。これを機に巌谷小波を知り、木曜会に参加。
新聞記者、貿易商社社員などを経て、39年お伽噺を中心に子どものための文化運動を推進する団体“お伽倶楽部”を創設、40年お伽劇団を結成。
日本最初の児童演劇“お伽芝居”を企画・演出し、各地を巡業して口演童話を広めた。
一方、43年には東京・青山に早蕨幼稚園を創立、幼児教育に尽くし、ボーイスカウト運動など青少年の社会教育にも力があった。
著書に童話集「お伽講談」「羊仙人」「童話久留島名話集」の他、「通俗雄弁術」「童話術講話」など。
没後の昭和36年、その業績を記念して久留島武彦文化賞が設けられた。 |
| 浅田彦一 |
博文館「太陽」主幹/妻が久留島武彦の妹 |
| 久留島秀三郎 |
同和鉱業社長、ボーイスカウト連盟理事長/久留島家に養子入り/
満鉄撫順炭鉱、華中鉄鉱、農商務省鉱務監督官、昭和製鋼所、昭和鉱業社長を務めた後、昭和21〜38年同和鉱業社長。
ユーゴスラビアの銅山開発に協力するなど国際的にも活躍。
一方、ボーイスカウト運動にも力を入れ、戦後はその再建に尽力、29年連盟理事長となった。
他に新生活運動協会長、日本幼児教育福祉協会長、身障者のためのコロニー建設推進懇談会長、日経連常任理事などを務めた。
著書に「馬賊を語る」など。 |
| 中野忠八 |
薬種・砂糖商、ボーイスカウト運動の先駆者/久留島秀三郎の兄 |
| 中野卓(たかし) |
社会学者、東京教育大学教授、千葉大学教授 |
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