
■肝付家から小松家へ
小松家29代・小松帯刀(清廉/尚五郎)は、父が、薩摩藩喜入(きいれ)領主・肝付兼善と、
母が、島津又左衛門久貫の娘の三男として生れた。
小松家は、吉利(よしとし)の領主で、
28代小松清猷は琉球使節役となったが、琉球在任中、29歳で没した。
清猷には嗣子がなかったので、妹・チカに婿養子を迎えることになり、
安政3年(1856年)、尚五郎が、小松家の養子となり小松尚五郎となった。
チカは尚五郎より年長であったが、小松家は一所持の家格の領主で、
力量手腕によっては家老にもなれる家柄であった。
■坂本龍馬の人物眼
明治維新の推進者として、功績をあげながら、
新しい日本の建設を目前にして死んでいった坂本龍馬と小松帯刀は、
天保6(1835)年の同じ年の生まれであった。
どちらも27・8歳頃から、国事に奔走し始め、
龍馬は大政奉還の直後に、33歳の若さで刺客の手に落ち、
帯刀は明治新政府成立後まもない、明治3(1870)年、36歳で病に倒れた。
ずばぬけた人物眼を持っていた坂本龍馬は、
当代、天下の大人物として、9人をあげていた。それは、
勝海舟、大久保忠寛(一翁)、小松帯刀、木戸準一郎(孝允)、高杉晋作、横井小楠、
三岡八郎(由利公正)、西郷吉之助(隆盛)、長谷部勘右衛門(正確には長谷部甚平)。
また、龍馬は、大政奉還を前にして、新政府の構想を練ったおり、
政治の中心をなす参議の候補にあげたのが、筆頭第一から、
小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵(利通)、木戸準一郎、広沢兵助(真臣)、
後藤象二郎、横井小楠、長岡良之助(護美)、三岡八郎 であった。 |
| ●小松帯刀家系図 (人物解説リンク:ウィキペディア) |
| 小松清猷(きよみち) |
28代当主、吉利(よしとし)領主/ |
| 肝付兼善(かねよし) |
14代当主、喜入(きいれ)領主/ |
小松清廉(きよかど)
(帯刀/たてわき) |
小松家29代当主/薩摩藩家老/肝付兼善の三男、母は島津又左衛門久貫の娘/
幼名・尚五郎/小松家に婿養子入り/
島津久光の側近として藩政に進出し、大久保利通ら下級武士を登用して藩政改革を推進。
1862(文久2)年、久光の東上を補佐し家老となる。
元治年間以降は薩摩藩を代表して国事に奔走し、岩倉具視らと図り藩を倒幕に導いた。
1868(明治元)年、参与兼外国事務掛、兼総裁局顧問、また玄蕃頭となり外国官副知事を兼ねた。
■小松帯刀|近代日本人の肖像
◆小松帯刀 |
島津久宝(ひさたか)
(島津豊後) |
薩摩藩城代家老/豊後、式部とも称す/
島津斉興に用いられ、城代家老となる。
斉彬も父・斉興の重用した城代家老であったので、そのままとし、琉球大砲船掛に任命した。
しかし、斉彬が亡くなり、父の斉興が藩政を後見すると、幕府迎合の保守政策をとり、斉彬派の家老で日置領主の島津久徴(ひさなが)を免職し、斉彬が苦心経営した近代的な軍事工場集成館なども廃止した。
しかし、久光が藩主・忠義を後見し、精忠組事件が起こると、有志派の希望する島津久徴を家老に再任し、斉興・斉彬・忠義と三代にわたった権勢は終わりを告げた。 |
| 小松清直 |
小松家30代当主 |
| 小松帯刀 |
祖父と同名/祖父・帯刀の勲功によって明治29年伯爵を授けられる/清直長男 |
| 小松重春 |
經國銀行頭取、日本製罐取締役/清直次男/伯爵 |
| 小松従志(じゅうし) |
主猟官/西郷従道六男、小松家に養子入り/伯爵 |
| 山口圭蔵 |
陸軍少将/妹は陸軍少将・平瀬碩六に嫁す。 |
| 西郷従道 |
元帥海軍大将/西郷隆盛弟/侯爵/
◆西郷従道 |
| 西郷隆盛 |
維新の三傑、陸軍大将/
◆西郷隆盛 |
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テレビドラマ相関図
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