那波光雄
(なわ) |
鉄道・橋梁技師、工博、東大教授、第19代土木学会会長/
明治26年、帝国大学工科大学土木工学科卒。ただちに恩師・白石直治の招請に応じて
関西鉄道会社に入る。揖斐川橋梁の設計及び架設工事に従事。
32年、関西鉄道を辞して京都帝国大学助教授となり、翌年ドイツに留学。
35年に帰国し、京都帝国大学理工科大学教授となり、鉄道工学講座を担当する。
39年、九州鉄道会社に入ったが、翌年同社の解散により帝国鉄道庁技師に転じ、日豊線の建設に従事。
44年、鉄道院大分建設事務所長となり、大正2年には日豊線大分川橋梁工事において、
足場を用いないで施行するわが国最初の起重機による橋桁架設を新案し、実施する。
大正6年、東京帝国大学工科大学教授兼任。鉄道院時代は鉄道建設規定の改正、
構造物の標準設計の制定などに寄与した。昭和6年、土木学会会長をつとめる。
「国土を創った土木技術者たち 」国土政策機構/編 |
平井毓太郎
(いくたろう) |
医博、京大教授、小児科医/
明治22年、東大医科を卒業。ベルツの助手として内科諸病、特に脚気の研究に従事した。
27年、京都府立医学校(京都府立医大)教諭となり内科部長を兼ねた。
32年、小児科学研究のためドイツに留学、アダルベルト・ツェルニーに師事。
新設の京大医科助教授を命ぜられ、35年教授に就任して小児科学講座を担当。
明治の中頃より授乳中の乳幼児にみられた「所謂脳膜炎」の原因が、
母親が使用する含鉛白粉(おしろい)であることを発見、本症が慢性鉛中毒であることを明らかにした。
この業績は大正13年日本小児科学会において発表され、昭和7年学士院賞受賞。19年学士院会員。 |
| 平井金三郎 |
医博、長崎医大教授/ |
平井和三
(かずぞう) |
医博、医師、大阪医大講師/白石多士良三男/
超高濃度バリウムの開発研究に従事。平成19年5月4日逝去 満84歳 |
岡橋林
(しげる) |
住友銀行社長/
明治39年住友銀行に入り、名古屋・東京各支店長などを経て、
昭和15年専務取締役(翌年社長と改称)に就任。戦時中は大阪銀行集会所会長などをつとめ、
また敗戦直後、関経連常任理事となるなど関西財界の中心的存在となった。
公職追放になったが、解除後28年、第5次吉田内閣の経済最高顧問に就任した。 |
| 竹腰健造 |
長谷部・竹腰建築事務所(日建設計)、双星設計創立者、日本建築協会会長/
竹腰虎太郎養子、妻はその娘・静/
明治45年、東大建築学科卒業後、英国に留学し、大正6年帰国、住友総本店営繕科に入り、
住友関係の建築を設計した。昭和8年に独立し、長谷部・竹腰建築事務所を開き、
芸術家肌の長谷部鋭吉の背後にあって設計業務の調査役を果たし、関西屈指の設計組織に育てた。
戦後、一時不遇の時代を過したが、23年に双星社(竹腰建築事務所)を再開し、多くの建築を残した。
建築において自らの個性を表すことは少なく、柔軟で幅広い思考を巡らし、黒子的仕事に本領を発揮した。
一方、素人の域を脱していたエッチング、能楽、陶作など芸術三昧の境地を有していた。
■参照:「周辺の人物(3)竹腰健造」(「長谷部鋭吉の世界」)
★「素顔の大建築家たち―弟子の見た巨匠の世界〈02〉 」日本建築家協会/企画・監修
「建築人物群像―追悼編・資料編 」土崎紀子/著 |
| 竹腰洋一 |
大蔵官僚/ |
| 柴田清 |
日本麦酒社長/
明治精煉・日本硝子を経て、昭和6年大日本麦酒取締役となり、常務を経て
昭和24年、大日本麦酒が朝日麦酒と日本麦酒(昭和39年サッポロビールに社名変更)に
分離した際、初代社長に就任した。 |
| 柴田彰 |
旭硝子/ |
| 岩村仙彌 |
富士金属工業監査役/ |
| 貝島太助 |
貝島炭礦創業者、貝島鉱業社長/貝島財閥は筑豊御三家(貝島・麻生・安川)といわれた/
幼年より炭鉱業に従事、明治18年大之浦炭鉱を開坑、31年、貝島鉱業合名会社を設立、
42年株式会社化、大之浦・大辻両炭鉱などを経営。炭鉱王と称され、石炭専業を貫く。
私立小学校設立など教育事業にも尽力。 |
| 貝島永二 |
貝島林業社長/ |