| 岩村八作(はつさく) |
岩村農場創設者(北海道開拓)/岩村通俊長男/男爵 |
| 岩村和雄 |
大正・昭和期の舞踊家/
はじめ照明家としてスタート。技術調査のため18歳で米に渡り、さらに欧州に回り
パリのダルクローズ分校で舞踊の訓練を受けた。
これが病みつきとなり帰国してから東中野に研究所を設立、
築地小劇場の俳優にリトミックを教えるかたわら、発表会を催した。
「悲歌」(昭和3年)、「ある表現」「ウルトラ・マシーン」(昭和4年)など、
常にラモーやドリーブ、クープランなどラテン系作家の曲だけを使用、
そこへ繊細で華麗な照明と衣装を添えて、個性溢れる作品を踊った。
その門下からはのちのちユリス美共などが育ち、息子の岩村信雄はクラッシック畑のダンサーとなる。
昭和4年宝塚音楽歌劇学校教師となり、前衛的バレエ「サーカス」「レッド・サークル」などを発表した。
昭和7年わずか30歳で病没。 |
| 丘浅次郎 |
動物学者、東京高等師範教授、日本動物学会会頭、/進化論の権威/
ドイツ留学後、東京高等師範教授。ホヤ類とヒル類の発生・形態を研究し、
生物学教科書や概説書を著す。「進化論講話 」は広く読まれた。
のちに仏教的な進化論に転換した。合理主義的・世界主義的な評論家として活躍。
★著書 |
| 丘英通 |
動物学者、東京教育大学教授、日本動物学会会頭/
★「習い性となるか 」 |
| 丘直通 |
動物心理学者、東京教育大学教授、日本動物心理学会を創設、会長/
長女・香西理子(のりこ)はヴァイオリニスト/
★著書・関連本 |
加藤木重教
(かとうぎ) |
明治〜昭和期の電気技術者/電友社社長/平藩柔道師加藤木直親の次男/
「もしもし」の考案者と言われる/
工部省に入り、明治16年から電信局電気試験所で電話機、電話交換法について研究、
きんちゃく型電話機を発明。また、欧米電話事情の調査や啓発活動に尽力した。
電気工学者・志田林三郎の指導を受けて電灯事業、蓄電池製造などにも参画した。
21年辞職して麻布の田中工場に入り、日本初の火災報知機を製作。
また、渡米して電話機、交換機製作に従事。帰国後、深川電灯会社技師長となり、
24年電気雑誌「電気之友」を創刊。29年電友社を創設した。
■参照:「加藤木重教」(「加藤木家の由来」) |
| 岩村薩馬 |
満州船渠常務/次女・愛子は板谷家に嫁ぐ、
長女・英子の夫は俳優・宇佐美淳(本名・駒木五郎)、その長女は声楽家・宇佐美瑠璃/
■参照:「宇佐美淳」(「ウルトラシリーズ俳優人名録」) |
板谷宮吉
(いたや)[初代] |
板谷商船社長、樺太銀行頭取/板谷家は北海道御三家の一つと言われた。
小樽を本拠に海産物問屋を大々的に営み、関東、中部はもちろん、
関西・中国方面まで事業の手を伸ばした。
その資力と商才とにまかせて海運業に進出し、日清戦争で巨利を博した。
明治32年には板谷合名を設立(45年板谷商船を設立して合併)、日露・第一次大戦で一段と膨張、
北海の長者から日本の板谷にのし上がった。
樺太銀行、十二銀行、南洋汽船、板谷商亊なども動かした。 |
板谷宮吉
[二代](真吉) |
板谷商船社長、十合(そごう)会長、板谷生命保険社長、小樽市長(昭和8〜12)、貴族院議員/
初代宮吉が強引無比の力の事業家だったのに対し、早大商科の出で学識にも富み、
肌合いは事業家というより緻密な思慮の下に資力を動かす近代資本家。
板谷商船をはじめ筆頭株主として早くから実権を握っていた十合デパートの会長としても経営に参画。
昭和6年の全国金満家大番附で岩崎(三菱)、三井、住友、安田などの財閥の面々が居並ぶ中、
堂々、前頭上位にランキング。 |
板谷宮吉
[三代](真満) |
板谷商船社長、十合取締役、北日本冷蔵製氷会長、小樽商工会議所常任議員/
戦争によって全滅状態となった板谷商船の商船隊の再建に、堅実経営をモットーとして尽力。
本業の他にも石油販売業、山林土地食品販売業等多角経営を行う。
昭和41年には小樽において市の経済界の要望もあって約二千トンの貯蔵能力を有し、
かつ日産三十トンの製氷能力を有する北日本冷蔵製氷を創立し、会長に就任した。 |
| 岩村通正 |
農学博士、岡山大学教授/ |
| 伊賀氏英 |
男爵/ |
岩村一木
(ひとき) |
肥料配給公団総裁/通俊八男、長兄・岩村八作の養嗣子となり家督を相続/男爵
妻・芳子は三宅猶之丞(内科・小児科医、慶応大学医学部一期生)の二女、
その姉(長女)は岩村通世の妻・八重子。 |