| ●伊藤家系図 |
| 伊藤為吉 |
1864〜1943/建築家、発明家/
明治15年上京、尾崎行雄の書生をしながら工部大学の自由研究生として機械学を学んだ。
M18年渡米、建築実務を学んで21年帰国。
ドライクリーニングや種々の事業を手掛けた後、伊藤組工作所を設立、
独自の耐震家屋設計、施工に従事した。
郡司成忠大尉の千島探検用に耐寒組立家屋を造ったり、鉄筋コンクリートの万代塀など
発明的な建造物を手がけた。42年には職工教育実施会を設け、職工軍団を編成、
建築労働者の地位と品位向上を図った。
晩年、大阪に研究所を設け、耐震家屋の普及に努め、永久機関の発明に心血をそそいだ。
◆「やわらかいものへの視点―異端の建築家伊藤為吉 」村松貞次郎 |
飯島魁
(いさお) |
1861〜1921/理学博士、東大教授、動物学者、日本鳥類学会創始者/
妹・喜美栄が伊藤為吉の妻。「その下の妹はたしか東京市長か文部大臣をした人のところに嫁いでいた」 (腹の虫 /中川一政・著)/
モースの指導を受け、東大卒業後ライプチッヒ大(ドイツ)に留学。
明治19(1886)年東大理科大学教授となり、91年理学博士。
1906年帝国学士院会員となり、また三崎臨海実験所長。
日本の寄生虫学の開祖で、ミゾサナダムシの幼虫を飲んで、その感染経路を明らかにした。
また、海綿類に関する業績も残した。
動物学の教科書「動物学提要」(1918)を著し、わが国における動物学の普及に貢献した。
モースの大森貝塚の発掘に参加し、考古学にも興味を持ち、陸平(おかだいら)貝塚を発掘して
大森貝塚とは異なる縄文土器の存在を明らかにした。 |
古荘幹郎
(ふるしょうもとお) |
1882〜1940/陸軍大将/弟は千葉銀行初代頭取・古荘四郎彦/
明治35年近衛歩兵第4連隊付少尉となり、日露戦争に従軍、負傷。
42年陸大卒業後参謀本部員、44年欧州駐在。
大正12年参謀本部編成動員課長、次いで陸軍次官となり、中国南京政府の孤立化をはかり北部諸省の自治工作を指揮。
航空本部長を経て13年第21軍司令官となり、広東攻略作戦を指揮。
14年大将、軍事参議官。 |
伊藤道郎
(イトウミチオ) |
1893〜1961/舞踊家/日本と西洋を融合したパフォーマンスで世界を駆けた伝説のダンサー。
NYブロードウェイで認められた最初の日本人/
三浦環に声楽を学び、オペラ歌手を志して明治45年パリに留学。
ベルリンでイサドラ・ダンカンの舞台に感動、舞踊家に転身し、ドレスデン郊外のダルクローズのリズム体操学校に学ぶ。
その後、英国、米国でダンサーとして活躍する一方、NYとハリウッドにミチオ・イトウ芸術舞踊学校を開設、多くの門下を養成した。
昭和6年帰国後、伊藤道郎舞踊研究所を設立し、舞踊だけでなく、新劇の演出、ファッションモデルの養成など多方面に活躍した。
亡後の47年には「ダンスマガジン」誌で“世界の十大ダンサー”に選ばれた。
◆著書・関連本
「伊藤道郎世界を舞う―太陽の劇場をめざして」藤田富士男
「伊藤道郎―人と芸術 」ヘレン・コールドウェル、中川鋭之助 |
| ジェリー伊藤 |
1927〜2007/俳優、ミュージカルスター、ジャズ歌手/伊藤道郎次男、母はアイルランド系アメリカ人/
NYのステージでミュージカル・スターとして成功をおさめる。
その後、日本で、男性ジャズボーカル界で数少ない貴重な存在として活躍。
舞台や数多くのテレビ出演の他、ステージ公演の司会など幅広く活躍した。
◆関連DVD
「モスラ 」
「江分利満氏の優雅な生活 」
◆関連CD
「NHK英語であそぼ 」 |
| 山口瞳 |
1926〜1995/作家/妹・栄(花柳若菜)がジェリー伊藤の妻/
二人の妹は日本舞踊を幼年より習い、下の妹は吾妻徳穂の吾妻歌舞伎の一行に加わって、欧米に行き、NYでジェリー伊藤と知り合った。
上の妹は、一時期、花柳流家元の内弟子になっていたが、百貨事典に載るような家柄の邦楽の師匠に嫁いだ/
河出書房などを経て、58年開高健の面接を受けて寿屋(現・サントリー)宣伝部に入り、
PR雑誌「洋酒天国」編集者、コピーライターとして活躍。
「トリスを飲んでハワイに行こう」などがその頃のコピー。
昭和38(1963)年「江分利満氏の優雅な生活 」で直木賞を受賞し、本格的な作家生活に入る。
「江分利満氏もの」は都会人の気分をうまくすくいあげ、サラリーマン、知識人の熱い支持を受けた。
54年「血族 」で菊池寛賞受賞。
また“世相巷談師”としても秀逸で、38年から週刊新潮に連載した「男性自身 」は
異例の長寿記録を更新した。競馬や酒、将棋などを愛好する。
61年に還暦を迎えたのを機に小説をやめ、エッセイで身辺雑記だけを書くという“定年生活”に入った。
◆著書・関連本
「家族(ファミリー) 」
「居酒屋兆治 」 |
| 山口正介 |
作家・エッセイスト、映画評論家/
オン・シアター自由劇場演出部を経て、映画評論、エッセイ、小説を執筆。
著書に映画評論「机上の映写機」、小説「アメリカの親戚 」「道化師は笑わない 」、
「プラント・ハンターは殺さない 」「ぼくの父はこうして死んだ―男性自身外伝 」がある。
◆著書・関連本 |
| 伊藤鉄衛(かなえ) |
1895〜1951/建築家 |
| 伊藤祐司 |
1897〜1963/音楽家、舞台美術家/
音楽学校を出て、声楽・作曲をやり、舞台美術にも手を染め、アメリカに渡ってNYのラジオシティホールで活躍した。 |
| テイコ・イトウ |
舞踊家/ニューヨークの大地主の孫娘テイコ・オノ |
伊藤貞司
(ていじ) |
作曲家、ドラム奏者/
東京に生まれ、7歳の時渡米、NYを本拠に、芝居、バレエの作曲を行い、ブロードウェイの「カッコーの巣の上で」(1963年)や、ニューヨーク・シティ・バレエの「ウォーター・ミル」(1971年)などの作品の作曲で知られる。
1982年、休暇先のハイチで心臓発作のため、47歳で死去。 |
伊藤熹朔
(きさく) |
1899〜1967/舞台美術家/
東京美術学校在学中から舞台美術の研究を始め、大正8年模型舞台研究所を創立して模型舞台展を開く。
14年築地小劇場「ジュリアス・シーザー」でデビュー。
以後、左団次一座、築地小劇場の舞台を手がけ、「夜明け前」「夕鶴」「火山灰地」「桜の園」「有福詩人」などの様式美、写実美を追求した数々の装置で認められる。
また「雨月物語」「地獄門」などの映画のほか、オペラ、新派にも進出、斯界の第一人者となる。
昭和5年後進育成のための六人会を主宰。
22年文部大臣賞など数々の賞を受賞し、38年に芸術院会員に推される。
著書に「舞台装置の研究」「舞台装置の三十年」などがある。
48年功績を記念し、伊藤熹朔賞が創設された。
■伊藤熹朔(テレビ日本美術家協会)
◆著書・関連本
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| 伊藤弘子 |
女優/
昭和36年俳優座に入り、「夜の来訪者」「ハムレット」「桜の園」などの舞台に立つ。
42年東宝演劇部に移り、「風と共に去りぬ」「王様と私」などに出演。
映画は短大2年の32年、木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾年月」に父親の縁で初出演し、
以後も木下恵介監督「風前の灯」「この天の虹」「笛吹川」「香華」、鈴木清順監督「関東無宿」「刺青一代」などに助演。
38年俳優座養成所で同期の長谷川哲夫と養子縁組し、42年「あの試走車を狙え」を最後に芸能界を引退。 |
| 長谷川哲夫 |
俳優/本名・伊藤哲夫/
昭和36年俳優座に入り、39年テレビ「七人の孫」で茶の間の人気を得る。のちフリー。
主な出演に舞台「ラ・マンチャの男」「ハムレット」「蒼き狼」「唐人お吉」「芝桜」、
映画「塩狩峠」「化石」「死線をこえて」「招かれざる訪問者」、テレビ「たんぽぽ」「早春物語」「代議士の妻たち2」「親愛なる者へ」「3年B組金八先生」「きらきらひかる」など。
■「長谷川哲夫のプロフィール」 |
| 上原真美 |
女優/
平成2年テレビドラマ「家族って」で女優としてデビュー。 |
| 中川一政 |
1893〜1991/洋画家、随筆家、詩人/
大正3年油彩の初めての作品「酒倉」が巽画会に入選。
4年岸田劉生らと草土社を結成。12年春陽会結成と共に客員となる。
文展審査員をつとめ、のちに二科会を経て春陽会の顧問的存在となる。
油絵具、岩絵具、水墨を自由に駆使して独特な文人画の世界を描き、枯れた味わいが高く評価される。
代表作に「春花図」「漁村凱風」「野娘」など。
新聞小説「人生劇場」(尾崎士郎)、「天皇の世紀」(大仏次郎)などの挿絵を担当。
また文章も巧みで、10代で懸賞小説に当選、「早稲田文学」に詩、短歌を発表。
絵画制作の傍ら、文芸誌を創刊したり、「美術の眺め 」「うちには猛犬がいる 」など多くの随筆を書いたりし、「中川一政文集」(全5巻)がある。昭和36年宮中歌会始の召人を務める。
他に詩集「見なれざる人」、歌集「向ふ山」、画文集「中川一政画集」など。
晩年は造形的な書にも独特の境地を開いた。61年「墨蹟一休宗純」を出版。
◆著書・関連本
「孤高の画人(日経ビジネス人文庫 画家 2 私の履歴書) 」 |
原阿佐緒
(あさお) |
1888〜1969/歌人/
庄屋に生れて英才教育を受け、16歳頃から短歌に関心を持つ。
のち上京して日本画を学ぶ。明治42年新詩社に入り、「スバル」等に作品を発表、
三ヶ島葭子(みかしまよしこ/異母弟に俳優・左卜全)と共に将来を嘱望されたが、大正5年「アララギ」に転じた。
同年処女歌集「涙痕」を出版したのをはじめ、昭和4年までに4つの歌集を出す。
大正10年、東北帝大教授・石原純との恋愛事件で一世を風靡したが、
新聞などで非難されアララギを除名になる。しかし、7年で破局を迎え昭和3年故郷に戻る。
その後上京し、銀座で酒場を開いたり、映画に出演するなどし、自由奔放な生き方を貫いて44年没。
「原阿佐緒全歌集」がある。平成2年、生家が原阿佐緒記念館として公開される。
H12年同館設立10周年を記念して原阿佐緒賞が創設された。
◆著書・関連本
「涙痕―原阿佐緒の生涯 」小野勝美
「原阿佐緒 」大原富枝 |
| 原千秋 |
映画監督/父は日本女子美術学校教師で翻訳家・小原要逸/
■原千秋(日本映画データベース) |
原保美
(やすみ) |
1915〜1997/俳優/父は画家・庄子勇/
オペラ歌手志望が転じて俳優に。創作座、松竹大船の青春スター、
独立映画の個性派などの役を経て、昭和33(1958)年NHKドラマ「事件記者」の“ベーヤン”役で
茶の間の人気者となる。人望厚く、S44年〜平成7年東京俳優生活協同組合理事長、のち会長を務めた。
他の出演作にTV「残り雪」「生きている心臓」「冠婚葬祭部長」、映画「きけわだつみの声」
「太陽のない街」などがある。
■原保美(ウルトラシリーズ俳優人名録)
■原保美主要出演ドラマ(テレビドラマデータベース) |
| 中川鋭之助 |
舞踊評論家、東京新聞文化部長/
◆著書・関連本 |
中川晴之助
(はるのすけ) |
1931〜/TBSディレクター(監督・演出)/
昭和30年、TBSの前身となるKRTに入社。(同期に、のちに円谷プロ第2代社長となる円谷一)
「すりかえ」「カルテロ・カルロス日本へ飛ぶ」で芸術祭奨励賞受賞。
「ウルトラQ」で、「育てよ!カメ」(ウルトラQ VOL.2 )「鳥を見た」(ウルトラQ VOL.3 )「カネゴンの繭」(ウルトラQ VOL.4 )の3本を監督。
3作とも、スタッフ・出演者の字幕紹介が流れる時、「ウルトラQ」メインテーマがかからない異色の作品。
他に、渥美清の「泣いてたまるか 」第1回「ラッパの善さん」などを監督。
■「中川晴之助」(「日本映画監督協会」)
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| 中川安奈 |
1965〜/女優/父方祖父・中川一政、母方祖父・千田是也、4分の1ドイツ人の血をひく/
桐朋学園専攻科1年在学中の昭和61年、日中合作映画「敦煌 」(大映制作)のヒロインに抜擢される。
[キネマ旬報賞新人女優賞(昭和63年度]
その後も映画「Aサインデイズ 」[ヨコハマ映画祭主演女優賞(平成元年)]、
「ゴジラVSキングギドラ 」「キャンプで逢いましょう」「CURE」「ヒロイン」、テレビ「詩城の旅びと」、
大河ドラマ「炎立つ(第弐集) 」、「出逢った頃の君でいて」「女同士」、
舞台「バタフライはフリー」「ラ・パンアジールに来たピカソ」「デッド・ギルティ」「エンジェルス・イン・アメリカ」などに出演。
◆関連DVD
◆著書・関連本 |
| 栗山民也 |
演出家、新国立劇場演劇部門芸術監督/
■「栗山民也」(新国立劇場) |
| 千田是也 |
1904〜1994/俳優・演出家、劇団俳優座代表、日本演出家協会理事長、桐朋学園短大演劇科教授/本名・伊藤圀夫(くにお)
大正13年築地小劇場創立と同時に参加、「海戦」(ゲーリング)で初舞台。
昭和2年東京を発ちモスクワ、ワルシャワを経て、ベルリンで5年間演劇を研究、ドイツの表現主義を学ぶ。
ナチス台頭期のドイツで労働者演劇や左翼活動の中で波乱に満ちた生活を送り、S6年末に帰国。
帰国後、東京演劇集団を結成。10年新築地劇団で左翼演劇のリーダーとして活躍。
S15年検挙・投獄されたのち、19年青山杉作らと俳優座を結成。
西欧近代古典劇上演の基礎をつくると共に、リアリズム演技の名教科書といわれる「近代俳優術」の刊行、俳優座養成所の発足、29年俳優座劇場の創設など、俳優座のリーダー的存在として活躍。
またブレヒト劇の翻訳紹介者としての功績も大。
54年ドイツ民主共和国芸術アカデミー会員となる。
’60年安保では新劇人の先頭に立った。
61年「セチュアンの善人」の中国公演、昭和62年末には、チェルノブイリ原発四号炉事故をめぐる人間模様を描いた戯曲「石棺」を演出。
自他ともに認める社会派で、「新劇の伝統を守るためにも、年に一本は社会問題に正面から取り組みたい」。
平成6年没。
■「千田是也」(港区ゆかりの人物データベース)
◆著書・関連本
「劇白 千田是也 」
「もうひとつの新劇史―千田是也自伝」
◆関連DVD
「宇宙大戦争 」
「大怪獣バラン 」
「トラトラトラ! 」 |
| 岸輝子 |
1895〜1990/女優/
働きながら夜は俳優の勉強をし、大正14年築地小劇場研究生となり、「寂しき人々」の乳母役で初舞台。
昭和4年劇団築地小劇を経て、11年新築地劇団に入団。
この間、俳優・東屋三郎と結婚するが、10年に死別。
15年千田是也と同棲、同年新劇人一斉検挙事件が起り、千田は投獄され、17年出所後結婚。
15年新劇人一斉検挙事件が起こり、夫は投獄。
19年青山杉作らと俳優座を結成、以来俳優座の中心女優として活躍。
代表作はブレヒト作「肝っ玉おっ母とその子供たち」のおっ母、「おふくろ」の母など。
映画は特異な個性と演技力を買われて名脇役として数多く出演した。
テレビの代表作に「虹」など。
また福祉施設への援助やベトナム反戦運動など社会にも関わり続けた。
◆「夢のきりぬき」 |
東屋三郎
(あずまや) |
1892〜1935/新劇俳優/本名・油屋三三郎(さんさぶろう)/慶応大法科卒/
父は政治家光妙寺三郎、母は柳橋芸者お六だが、実父は光妙寺の親友・西園寺公望という異説もある。
明治26年父の死後、西園寺家で養育された。
大正6年踏路社結成に参加、「画家とその弟子」で新劇俳優としてデビュー。
のち第二次舞台協会に参加し、12年映画「三つの魂」「毒塵」に主演。
13年築地小劇場に加わり、昭和3年6幕の大作「空気饅頭」で主役を演じた。
同年小山内薫の死後、築地小劇場を脱退、5年劇団新東京、7年築地座結成に参加、
舞台活動の傍ら、10年P.C.Lの「三色旗ビルディング」にも出演した。 |
| 光妙寺三郎 |
1847〜1893/衆議院議員(無所属・山口1区/第1期1回当選)、大審院検事、逓信省参事官/
弘化4年8月生まれ、長州三田尻(現・防府市)の寺の出身で、三田・光田・末松と称した時期もある。
1878年には既にフランスの法律学士となっており、留学した西園寺公望にとっては留学仲間の先輩格であった。
光妙寺は漢詩文や文芸の趣味で西園寺と共通するところがあり、両人はフランスで親密に交際した。
フランスにおいて法学を学び、フランス公使館書記官、日本に帰ってから元老院等をへて、
東洋自由新聞社員や衆議院議員等になったが、晩年はめぐまれず窮死したといわれる。
明治26年9月27日死去。 |
坂東寿三郎
(3代目) |
1886〜1954/歌舞伎役者/屋号・豊田屋/本名・坂東与三郎/父は2代目坂東寿三郎/
明治24年坂東長次郎を名乗り大阪角座「紅屋騒動」の踊り子役で初舞台。
大正元年浪華座「桜吹雪」の織田信行で3代寿三郎襲名。
以来3代市川寿海と並び関西劇壇に“双寿時代”を作った。
12年女優を加えた研究劇団第一劇場を主宰、進歩的な新劇運動を展開、多くの勤皇物も手がけた。
「御所桜」の弁慶、「陣屋」の熊谷、「忠臣蔵」の由良之助、「心中宵庚申」の半兵衛などが当り役。
昭和28年日本芸術院賞受賞。関西歌舞伎の重鎮であった。 |
| 伊藤貞亮(ていすけ) |
建築家 |
| 伊藤翁介 |
作曲家・ギタリスト、伊藤音楽研究所主宰/妻は声楽家・伊藤多津子/
第9回日本童謡賞(昭和54年)「こどものうた」、第4回サトウハチロー賞(平成4年)/
昭和9年までオルケストル・シンフォニカ・タケイ、20年までビクター専属、22年までNHK専属、その後フリー。
この間12年ボムクラブ、22年新風社、41年詩と音楽の会、44年日本童謡協会を設立。
また、26年ギターの表面振動板の共鳴理論を確立した。
著書に「伊藤翁介歌曲集」「現代奏法によるカルカッシ・ギター教則本1〜4」がある。
◆著書・関連本 |
| 伊藤瞭介 |
ゼファー(小型風力発電機メーカー)社長、山水電気社長/
■伊藤瞭介(「Earth Dreaming〜ガラスの地球を救え〜」) |
伊藤幹翁
(みきお) |
作曲家、日本童謡協会理事/
第18回日本童謡賞(昭和63年)「童謡曲集・いつしかこころに」/
読売日響事務局に12年間勤務ののち、フリーとなり、作曲、編曲、指揮に専念。
著書に「童謡曲集・いつしかこころに」がある。
◆関連CD
◆「ディズニー合唱曲集 女声合唱 いつか王子様が 」 |