| ●田中絹代家系図 (人物解説リンク:ウィキペディア) |
| 田中絹代 |
女優、映画監督/四男四女の末っ子/
母方小林家(※)は下関で造船業・船問屋(回漕業)を営んでいた。屋号は唐崎屋。
母は長女(兄二人)で、小林家の大番頭・田中粂吉に嫁いだ。
絹代と名づけられたのは、絹餅のような肌になるように、という願いからだった。
しかし、小林家は倒産、絹代が生れて1年半後に父は死去、田中家は生活に困窮し始めた。
幼い頃から琵琶を習い、13歳で大阪に出て、少女琵琶歌劇団の女優となる。
大正13年、松竹下加茂撮影所に入所、「元禄女」で映画デビュー。
昭和2年、「恥しい夢」に主演。24年まで松竹に籍を置き、以後フリー。
この間、日本初のトーキー映画「マダムと女房」や「伊豆の踊子」「愛染かつら」「西鶴一代女」「雨月物語 」「楢山節考」など約300本に出演し、大スターとして活躍。
戦後は演技派に脱皮、特に溝口健二監督の作品に優れたものが多い。
28年には「恋文」で監督としてもデビューし、「流転の王妃」など6本撮る。
老年に至って、益々円熟味を加え、49年の「サンダカン八番娼館 望郷 」では元からゆきさんの老婆を滋味豊かに演じて、50年ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。
日本の映画史上最大の女優といわれ、田中絹代賞が設立されている。
◆田中絹代
「小説 田中絹代 」新藤兼人
◆田中絹代 関連DVD
「前略おふくろ様」
※小林家の全盛時代は、郵便局、港、小学校へも他人の土地を踏まないで行っていた。
木曽義仲の一党・朝比奈太郎左衛門が都落ちしてきて、侍を捨てて船問屋を始めた。
吉川英治の「宮本武蔵」に小林太郎左衛門という船問屋が出てくるが、武蔵が巌流島へ行く前、そこで、想を練って櫂をつくる。それが、小林家の祖先。 |
| 清水宏 |
映画監督/昭和初年、田中絹代と婚約・同棲するも、間もなく解消/
札幌農科大を中退、有島武郎邸の玄関番となったが、大正10年松竹蒲田撮影所に入る。
池田義信の助監督を経て、13年「峠の彼方」で監督に昇進、以後敗戦まで多くの映画を作った。
サイレント映画には「京子と倭文子」「あじる女」「青春図絵」「港の日本娘」「大学の若旦那」など、メロドラマ的現代劇。
トーキー時代には、「恋愛修学旅行」「彼と彼女と少年達」「有難うさん」「恋も忘れて」「風の中の子供」「花ある雑草」「みかへりの塔」など。
戦後、蜂の巣プロを創設、自ら養育の浮浪児8人を出演させた「蜂の巣の子供たち」(23年)など、ユニークな子供映画を作り、24年「小原庄助さん 」、30年「しいのみ学園」などを発表した。 |
| 小林雄一 |
三井物産門司支店勤務、北海道に転勤したのち昭和石炭の幹部に迎えられる。 |
| 小林正樹 |
映画監督/
大伯父・安太郎が勘当になり、祖父・熊次郎が早世したので、父・雄一が安之丞の三男として入籍。
田中絹代との関係は戸籍上は、いとこ(実際は父が、いとこ)/
早大で東洋美術を専攻し、会津八一に師事。
昭和16年松竹大船撮影所助監督部に入り、軍隊生活を経て、21年に復員、木下恵介監督に師事する。
27年「息子の青春」で監督デビュー。
「壁あつき部屋」「あなた買います」「黒い河」で評価され、34〜36年の大長編反戦映画「人間の條件」5部作で監督としての確固たる地位を築く。
以後も「切腹 」「上意討ち」「化石」「食卓のない家」などの名作を手がけた。
57年足かけ5年の歳月をかけた長編記録映画「東京裁判 」を完成させた。 |
| 文谷千代子 |
女優/
◆文谷千代子 関連DVD
「白痴 」(久我美子の姉役) |